生きてきて、自分を否定することが多かった。
多かったというか、むしろ否定してばかりだった。
そんな経験を重ねていると、自分を否定しやすいタイミングというものも分かってくる。
このタイミングになんとなくでも気づけるようになると、生きるのは少しラクになる気がする。
おれが自分を否定したくなりやすいのは、他人が自分よりも何かを達成していることを思い知らされる時だ。
あの人はこんな凄いことを達成している
あの人はあんな立派な功績を積み上げている
あの人は学生なのにばりばり社会で活動している
あの人はいつも楽しそうでキラキラしている。
それなのにおれは…
それなのにおれはこの人生で何ひとつ積み上げていない
この手のひらには何もない
だからおれの人生に価値なんてないのではないか
このまま何ひとつ手にすることなくただただ人生をむなしく終えていくのだろうか
そんなことを考えてしまいがちだ。
特に自分の中で気持ちがぐちゃぐちゃしているときはそんなことを考えてしまう。
しかしよくよく考えてみれば、自分には何もないというのは、
自分の価値のなさを証明するものなのだろうか。
自分は何もない、何も達成していない、という感覚は、イコール価値がないよ、ということになるのだろうか。
何も持っていなくても、何も達成していなくても
あなたがいると私が助かる、と言ってくれる人が一人でもいるのなら
それは価値があることになるような気もする。
ただ友達として、ただ家族として、ただ仲間として
誰かの何かの励みやきっかけになるのであれば
それはすごい価値な気がする。
例えば就活をしたりしていると
どうしても自分の価値を経済的に測れるもので主張しようという思考になる。
私を採用すれば御社にはこんな経済的な価値を提供できますよ、と。
その時には、これまでに達成してきた経歴というのは証明になる。
だからみんな欲しがって躍起になって探すわけだ。
もちろん、就職となれば経済的な観点からモノを言うべきであるけれども、
それと自分の価値をリンクさせるのは、やっぱり違うのだろうと思う。
就活自殺とかは本来自分の価値とは関係ないものを自分の価値と強く結びつけてしまったがゆえに起きたんだろうな、なんて思って悲しくなる。
人間としての価値は達成したことや積み上げてきたことだけで測れるものではない。
経済的な価値と、人間としての価値は明らかに別だ。
だから自分には何もないという感覚は、自分を否定する理由にはならないのじゃないかな、とおれは思うのだ。
まあ苦しいときは苦しいんだけどね。
そんな朝の思考のひとこま。