一人の時間が好きだ。
家で一人でほくほくとコーヒーを淹れる時間とか、
音楽を聞きながらちょこちょことお酒を飲む時間とか、
部屋でかたかたと文章を打ち込む時間とか、
頭を空っぽにしてアホなTV番組をみる時間とか、
そんな時間がたまらなく大好きだ。
派手さはなくても、どんなに地味でも、そういう時間は私にとってはかけがいのないもので。
大げさに言えば私の生きる糧となっている。
だから、そういう時間を予期できない用事で狂わされると、言いようのないもやもやとか、圧迫感を感じる。
息苦しくなって、閉じこもりたくなる。
世界と関わるのを辞めたくなる。
でも、一方で。
もう一方で私は、いつも寂しくて誰かとつながりたい、という気持ちも持っている。
こんなこと言うのは情けなくて恥ずかしいけれど、でも実際のところ、そうだ。
酸いも甘いもぶつけられるような存在をいつもどこかで求めているし、
くだらないことから背伸びしたことまで肩肘張らずに語れる相手を心の底で求めている。
もっとわかりやすく言えば「心の友よ!」を求めている。
もしくは「本当の仲間」みたいなものを欲している。
ドラマや映画やアニメの見過ぎだと笑われようが、それが本心だ。
どうだろう、これが27歳独身男性のリアルだ。
引いただろうか?まあ人の本音なんてそんなもんだ。
結構気持ち悪くて情けない。
どんなに取り繕ったって、清涼飲料水みたいな爽やかさは戻ってきやしない。
私はいつもこの「ひとりで生きていきたい」と「どうしようもなく誰かとつながりたい」の間をぼんやりと漂っている気がする。
恋人がいようが、めちゃくちゃ仲のいい友人がいようが、常にだ。
もちろん、時には、ああもう最高だ、と思うこともある。
この気持ちが永遠に続けばいいのに、と感じることもある。
しかし、時間が経てばそれだけでは物足りなくなって、逆の方向に振れ始める。
このまま満ち足りたひとりの時間を送ることができれば最高だ悔いはない、と思っていたはずなのに、気がつけばどうしようもなく孤独をこじらせて突然毎週末のようにイベントに参加し始める。
そんな日々が続いて、ああたくさんの仲間に囲まれておれは幸せだ、なんて思っていた次の一ヶ月は一人の時間がたまらなく恋しくてとにかく邪魔をされたくない、と思ってこもってしまう。
そんな振れ幅を揺れ続けてきた。
いい加減、一体自分は何をしたいんだ、本当のおれはどっちなんだ、と自分に苛立っていた。
なんて効率が悪いんだ、合理的でないんだ、と悔やんでいた。
毎度毎度そんな調子だった。
しかし、少し冷静になって振り返ってみれば私はずっと「ただひとつの唯一の正解」を求めすぎていたんだと思う。
自分自身が「ちゃんと人とつながり続ける」という人間なのか、もしくは「孤独を愛し孤独だけに生きる」人間なのか。
どちらかひとつの唯一無二の正解があるはずだと思い込んでいた。
本当の自分、みたいなものがあるはずだ、と心の何処かでは思っていた。
でも、おそらくそこにただ一つの自分、なんてものはないのだ。
私たちはおそらく、答えのない2つの間で永遠に揺れ続けるんだ。
どっちが正しいのか、どっちが本当の自分なのか、と悩んで苦しんで嫌になって苛ついて、そんな日々を繰り返して、そうして気づくのだ。
ああ、どちらも自分なんだ、という当たり前の事実に。
その事実はある意味絶望だ。
どちらか片方が唯一の本当の自分なのであれば、もう一生悩まなくて済むのに。
こんなもやもやを一生抱え続けるのか、という終わりなき道。
そんなものを目の前にして、一体何を思えばいいというのだろう。
もしもこの事実に希望があるとするのであれば、それは永遠に立ち止まれない、ということだ。
揺れ続けながら、ふらつきながら、その間で考え続ける機会を得た、ということだ。
もしかしたら、自分はコレだ!と確固たる自分を持っている人もいるのかもしれない。
いつだって揺らぎなく明るく朗らかに多くの人とつながり続ける人だっているだろうし、
いつだって一人の時間を揺るぎない信念で貫いてその人だけの世界を完成させる人もいるだろう。
そういう人を見て羨ましくなったり、自分を卑下したりしてしまうこともあるだろう。
しかし、揺らぐことでどんなときにも一歩を踏み出す機会を僕らは得ているのかもしれない。
そう考えれば、両極をぼんやりと漂い続けることは、踏み出し続けるエネルギーとも言える。
なーんて話を大きくしたのだけれど、要は過度に現状に悲観的になっても得はない、というだけのことだったりするのかもね。
今の自分の状態をちゃんと見つめて、今の自分に必要なものもちゃんと見つめて、気分良く冷静にいること。
そういうことだ。