「目の前の重苦しい現実に突破口が見いだせず、ずっと悩んできた。」
「なんで自分はこうなんだ、と悔しくてしんどくて苦しかった。」
悩んだり、苦しかったりした期間が長ければ長いほど、僕らは逆にその原因が大層なものであってほしい、と思ってしまう。
鋭利で複雑で深淵な原因によって苦しんでいたんだ、と思いたくなる。
時にはその原因が高尚であって欲しいとすら思う。
だって、ずっと抱えてきた苦しみに見合うだけの原因でなければ困るから。
これまでのつらい気持ちや情けない気持ちに対してこれが原因なら仕方ない、と思えないとより一層自分が惨めだから。
もしも社会とか世界のせいなのだとしたら、自分にはどうしようもなかったと慰めることができる。
もしも世の中の他者よりも自分はずっと不利な状況にいたのだとしたら、あの苦しみも当然だったと諦めることができる。
しかし、実はあなたの苦しみの原因は些細なことでした、なんて種明かしをされた日には
「私はこんなことすら解決できなかったのか」と自分を責めてしまうだろうし、
ずっと悩んできたのにそんなわけないじゃないかと怒りたくもなるだろう。
これはある意味、プライド、なんだと思う。
どこかで「自分ほどの人間が苦しんできたんだからその原因が他の人と同じであってたまるか」というプライドがある。
私だけの特別な大層な理由があったからここまで悩んできたんだ、というある種の高慢さ。
そういうものがあったんだと思う。
それはそれで仕方がない。
つらかった、かなしかった、くるしかった、なさけなかった。
そんな経験を乗り越えて自分の気持ちを保つためには、そうやって自分を守ることも大事だったはずだ。
それはきっと必要だったことだ。
しかしそのままでは前に進めない。
そのままではきっとずっと苦しいままだ。
だから、そろそろ捨てないといけないんだと思う。
悩みや苦しみの原因が大層なものであって欲しい、そうあるべきだ、というプライドや高慢さ。
それを捨てる勇気を持つべきときが来たんだと思う。
たぶん大丈夫だ。
悩んできたからこそ、プライドを捨てた先には優しさと強さを持った人間になれるはず。
だからなさけなくても惨めでも今ここで中途半端なプライドを捨て去るんだ。
ぐっと心は痛むけど。
それが少し心地良かったりもする。