行動力があってぶっ飛んでいるタイプの人。
もしくはいつでもはつらつと元気な物語の主人公タイプの人。
私は一時期は彼らのようになりたい、と憧れたことがあった。
そういう人って結構いるのではないだろうか。
しかし今は己の真面目さに変にコンプレックスを感じることはかなり少なくなった。
その原因は自分の中で己の「真面目性」のようなものについて考えが整理されてきたからだと思う。
つい先日も、この手の話題について友人と話していて、そうだよね、と非常に共感し合ったところなので、これを機に再度、整理&共有してみようかなとおもう。
大人から真面目だと褒められ続けた子供時代
私は子供の頃から「真面目だ」と評価されることが多かった。
それは学校に休まずに登校し、きちんと授業を受け、宿題も忘れず、掃除や日直などもさぼらない、という生活態度からそのように言われてきたんだと思う。
家庭での生活も良好で、親に特段大きな迷惑をかけたことも少なかったと思う。
駄々をこねたり、癇癪をおこしたりというようなことも少なかった。
そのためか、祖父母や親戚からは「真面目で良い子だ」とよく言われた。
この文脈では基本的に「真面目だ」というのは「良い子だ」という意味合いを持つ。
ここでは真面目であることは美徳なのだ。
そんな空気感を敏感に読み取った幼いころの私は「真面目にしていれば褒められるのだ」という独自の成功法則を編み出し、自らのアイデンティティを「真面目であること」に置くようになった。
だから学校では優等生的に振る舞ったし、先生などの大人から評価されることを積極的にやった。
別に「先生からよく思われて、内申をあげてやろう、ぐへへ」というようなゲスな考えを持っていたわけではない。
真面目さがアイデンティティだった私にとっては先生をはじめとした大人に褒められるということは自らの存在証明の1つであったわけだ。
だから心底ピュアな感情から真面目な振る舞いをしていた。
それが正義だと思っていたし、自分勝手なやつを愚かだとさえ思っていた。
従順さが背景にある真面目さ
自らも大人と呼ばれる年齢になってわかったのは、基本的に目の前の仕事で忙しい大人という生き物は問題を起こさない子どもが好きだ。
大人の判断に対して従順な子どもを好意的に評価する傾向にある。
そのほうが都合がいいし、大人としての威厳とか体面も保てるからだ。
学校という枠組みの中で決められたルールを守ってくれる存在はそりゃ多少褒めたくなるほどには素晴らしく見えるだろう。
忙しい毎日の中でそう思ってしまう、その気持ちはとってもよく分かる。
つまるところ、先生をはじめとした大人が褒めてくれる真面目さには、対象の存在が従順であることへの好意が多分に含まれているのだ。
そうした存在を褒めることでさらに集団全体の秩序が向上するという効果もあるだろう。
そしてこのような考えが行き過ぎると集団の秩序を乱すような異分子の排除へとつながっていくわけだ。
上のような文脈での真面目さの賛美は「大人と子ども」という関係性だけにとどまらない。
例えば経営者と従業員、リーダーとメンバー、責任者と参加者、そういった関係性が生まれるところでは同じようなことが起きる(起きている)可能性が大いにある。
そこに集団がある限り、秩序を守りたい人はその集団にとっての真面目さを保つ存在は評価の対象になり得るのだ。
自分の考えを示すことを恐れ、真面目さに逃げいていただけだった
しかし真面目であるということは従順であるということなのだろうか。
辞書的な解釈では真面目というのは以下のような意味となっている。
「本気であること」。
つまり自分の気持が強くそこに乗っていることが真面目の本質であるわけだ。
力を持つ人に反抗することなく静かでいることが真面目なのではない。
真面目は「良い子」の代名詞などではないのだ。
私は「真面目さ」を自らのアイデンティティとして利用していたが、それはただ自分自身を表現することのできない弱さゆえだったのかもしれない。
真面目だからと自称することで、自分を偉く見せたかっただけなのかもしれない。
もしも「真面目だね」と言われたときにそれが自分の従順さを指して発せられていたのであれば、たとえ好意的な文脈であっても注意すべきなのだと思う。
真面目であることで己の考えを表明することから逃げたりしていないだろうか。
気質としての真面目さ
一方で、気質としての真面目さも考えてみたい。
再び個人的な話になってしまうが、私は平時はあまりテンションが高くない。
はっちゃけたり、おちゃらけたり、物語の主人公のような底抜けた明るさは全然ない。
性格が暗いわけではないと思うが、すぐに人と打ち解けられたりするタイプでもない。
要は「根が真面目」なのだと思う。
一人でいる時間が大好きだし、自分が決めたことをコツコツとやるのは実に楽しい。
自分が好きなこと・大事にしていることについては適当にこなすのは許せないし、ストイックな雰囲気は結構好きだったりする。
こう考えると前半で語ってきたような「従順さがゆえの真面目さ」とは全く違う性質の真面目さというものがあるように思えてならない。
気質としての真面目さ、とでも言おうか。
本質的な性格の一要素としての真面目さ、というものがあると思う。
それは、生きる上でのリズム、みたいなものだ。
ここをずらしてしまうと、苦しくなるようなそんなコアなもの。
気質としての真面目さはそういうものなんだと思う。
気質としての真面目さを受け入れてくれるコミュニティ
気質が真面目な人間は所属するコミュニティを間違えると生きづらさを感じやすいようだ。
このタイプは自分の目の前のことに一生懸命取り組みたいので、自分のペースを崩したくないような人が多い。
しかし、こうした考え方は違うタイプの気質を持つ人にはなかなか理解されなかったりもする。
なので、そこを尊重してくれるコミュニティでないとどんどんと居づらくなってしまう。
こうしたコミュニティは今の社会ではまだまだそこまで多くはないのかもしれない。
しかし、現代であれば同じような価値観を持つ人とSNSで繋がったりすることもできる。
そうした世界に触れることで自分の気質としての真面目さを受け入れていくことができるのではないだろうか。
正反対の2つの「真面目さ」
この記事内では2つの全く正反対とも言える「真面目さ」について書いてみた。
1つめは「従順さからくる真面目さ」。
2つめは「気質としての真面目さ」。
「従順さからくる真面目さ」は自分を表現できない弱さから産まれ、
「気質としての真面目さ」は自分の本質のひとつ。
もしも「真面目だね」と評価されたとき、それは一体どういう真面目さを示しているのかを一度冷静になって考えてみると良いと思う。