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関西における、ツッコミ文化発達の背景とその文化人類学的要因

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※本論文は多分に妄想と視点の偏りが含まれています。容量・用法をお守りの上、ご利用ください。

 

世界広しといえども日本国ほど「笑い」という行為の構造に着目し、その実践に邁進してきた国はほかにないであろう。

 

お笑い芸人という、面白さを絶対正義とする職業が社会的地位を獲得していることからも、日本人がいかに「笑い」に対して期待と羨望を抱いているかがうかがえる。

 

みな、笑いを渇望しているのである。

 

残業に押しつぶされ、都会に消耗し、飲みにケーションに翻弄され、人様の不倫の愚痴をこぼしながら、ワイドショーにいそしみ、婚活に忙殺されているのである。

 

笑えない。みな、まったく笑えていないのである。

 

きっと誰かがこのくだらない日常に笑いをもたらしてくれるのではないかと期待し、そして、笑いをとれる人をどうしようもなく羨望しているのだ。

 

それほど「面白い」ということが人間としての価値と結びついているのだ。

 

お分かりいただけただろうか。

 

こうした社会的背景において「笑い」は何よりも価値を持つのである。面白いは正義、絶対的な正義なのである。刮目せよ。

 

 

 

さて、今回の研究では面白さを至上のものとする主義・主張および類例の態度について文化人類学的に考察することを目指す。

 

研究を行うにあたって我々は、上記のような態度を「面白さ絶対至上主義」と呼称し、「面白さ絶対至上主義」の生まれた背景を推察していくための最高のフィールドを、ながらく探し求めてきた。

 

そうしてこのたび、この偏った主義がもっとも顕在化した、最高のフィールドを発見することに成功した。

 

それが、KANSAIである。

 

この土地には、日本国の他の地域と比較しても類を見ないほど、面白さに対する価値判断に偏りが見られる。

 

KANSAIには、こんな格言があるという。

 

『面白くないやつには、死を。面白さに、服従を』

 

そう、ここでは「面白い」が全てを手にするのだ。

 

金、女、地位、名誉。

 

全ては「面白い」者のみが手にすることのできる特権なのである。刮目せよ。

 

 

さて、「笑い」の話をすると決まってこんなことをいう人間が現れる。

 

「それって、エンターテイメントじゃーん、ぱりぴいいいいい!」

 

くそリア充が。

 

愚か。あまりに愚鈍。

 

精子から人生やり直せ。やり直した挙句、顔の造形を醜くする遺伝子を組み込んで再突入しろ。

 

そう、KANSAIでの「面白い」は断じてエンターテイメントなどという生易しいものではないのだ。

 

戦争、なのである。

 

 

 

 

例えばクラス会。

 

文化祭での出し物を決める学級会議。

 

そこはもはや関ケ原である。

 

武功を上げようといきり立つ武士(もののふ)たち。

 

普段なら彼らを諫める教師も、この時ばかりは遠巻きに眺めざるを得ない。

 

文化祭というクラス行事に、教師がしゃしゃり出るのはご法度だからだ。

 

もし、邪魔しようものなら途端に生徒たちから嫌われて「加齢臭」「ザビエル」「ガリクソン」などの異名をつけられ、目の敵にされる。

 

それは今後のクラス運営に支障をきたす。そんなリスクは侵せない。

 

また、学級委員という最高権力はマジメに仕切ることしか能のない、お飾り天皇も同然。

 

無力である。

 

もうここは野武士たちの独壇場なのだ。

 

「面白さ」という武功を挙げれば、(クラスでの)地位に直結する。

 

そうなれば我先にと武功に飛びつきたくもなる。

 

しかし、功を焦るあまり、裸一貫で飛び出してはいけない。機を見極めて出るべきところで出る。それが定石だ。

 

戦場では一分一秒の油断が命取りなのだ。

 

ゼロコンマ一秒でも他の人間よりも早く面白いことを言わなければ、その人間は存在しないも同じなのだ。

 

つまり、死。

 

社会的死なのである。

 

 

さて、こうした厳しい戦場での鍛錬を経て、KANSAIでは一つの技が編み出された。

 

それが「ボケーツッコミ」である。

 

それまでの常識を覆し、二人一組で戦場を生き残ろうとする革新的集団戦法である。

 

片方がボケることでスキを見せ、そこにもう一方が狙いすました俊速のツッコミを入れる。

 

この連係プレーに、スピードが命の戦場で他の者が、かなうはずもなく、二人で称賛と羨望を荒稼ぎするのだ。

 

地位を確かなものにすれば、実質的権力者、征夷大将軍も射程に入ってくる。

 

ボケの発想力と、ツッコミの反射速度。

 

これがそろえば、天下が見えてくるわけだ。

 

ツッコミが発達するのもうなづける。

 

そして往々にしてツッコミは反射的につっこむ術を身に着けてきているので、KANSAI以外の地域でも思わず、ツッコミを入れてしまうのである。

 

ツッコミの性なのだ。

 

 

さて、こうした戦場での幼少期からの鍛錬を通じて、戦闘の型ともいうべきスタイルを手に入れたKANSAI人は、お笑いにおいて圧倒的な戦闘力を見せつけるようになる。

 

より複雑に仕込んだ技を使って、新喜劇や漫才を発展させ、日本国におけるお笑いでの絶対的地位を築いたのである。

 

 

 

しかしそもそも、なぜKANSAIには笑いを至上の価値とする価値観が根付いているのだろうか。

 

親から子へ、先輩から後輩へ、笑いに反応せざるを得ない姿勢を徹底的に叩き込まれるエリート戦士が育成されるシステムの背景には何があるのだろうか。

 

仮説段階ではあるが、これについて我々は、KANSAIに江戸のような「粋」の文化がなかったことが影響した、と考えている。

 

粋、のような美意識がなかった場合、コミュニケーションにおいてリズムや「お決まり」といったものが重視されるようになる。

 

そうなると、ボケ―ツッコミといったパターンが人間関係の円滑剤として根付いていくわけだ。

 

このように他地域との比較したとき欠損を補うような言語現象を文化人類学的には「KANSAI効果」と呼ぶ。

 

 

今回、われわれは、KANSAIをフィールドとして研究を進めることに成功したことで、飛躍的な研究の向上を達成した。

 

今後も、引き続き、調査研究を続けていきたい、

 

 

わけねーだろ、ばーか!

 

二度と書かねーよ!

 

PC落ちやがって、二回もこんな文を書いてんだよ。

 

だれかおれの数時間かえしてください