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その文章にあなたはいるか。表現力は一瞬で劇的に変わると知った。

 

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昨日研究室の教授と話していて、

 

「この文章には自分がない。君がいないじゃないか」

 

と言われた。

 

言い方とか口調とかがアレだったので

 

(大学教授は言い方がアレな人も多い)

 

はじめは、は?と思ったのだけれど

 

実はちょっとイラついたりもしたんだけど

 

でも良く考えてみれば

 

それはおれが普段から一番大切にしたいと

 

思っていることそのもので

 

それを見失っていた事を指摘してくれるものだった。

 

 

 

文章には2種類ある、自分がある文章と、ない文章だ。

 

なんて名言チックに言ってみたものの、

 

実際そうなのだと思う。

 

じゃあここで「自分がある」って一体なんだろう。

 

おれははじめは

 

「自分の考えが書いてあるかどうか」

 

じゃないかと思った。

 

私は〇〇だと思います。××だと考えます。

 

って書いてたらその文章には自分がありそうだ。

 

でも違うんだ。

 

ほんとうの自分がある文章というのはそうじゃない。

 

教授が言うには

 

自分がある文章というのは実は相手が見えている文章なんだ。

 

なぜかって

 

人は何かを「考えた」から文章を書くわけではなくって

 

何かを「伝えたくて」文章を書くからだ。

 

考えただけでは文章にはしない。

 

だってめんどくさいもん。

 

誰かに伝えたいという思いがあって初めて

 

めんどくささを超えて表現を形にする。

 

つまり相手の姿を思い浮かべてその姿が見えているからこそ

 

その人に伝えたいという思いが文章という形になるんだ。

 

だから相手が見える文章には自分がこめられている。

 

 

 

これってつまり「切実さ」なんだよね。

 

おれはホントにこう思うんだ、だからこうしてくれよ、頼むよ

 

っていうそれくらいの切実さ。

 

絶対これって最高だから、どうにかして実現したいんだ、だから手伝ってくれよ、

 

おれはこういう事で苦しんできたから同じような人を救いたいんだ、だから広めてくれよ、応援してくれよ

 

そんな切実さ。

 

それが「自分がある文章」なんだ。

 

 

 

そう考えれば確かにおれが教授に出した文章には

 

自分がなかった。

 

研究について書くときはどうしても動機を忘れて

 

先行研究の内容をどれだけうまくまとめるか、とか

 

データからいかにもっともらしい事を考え出すか、とか

 

そんなことに集中しがちになってしまう。

 

そこにはどれだけ自分の考えが書いてあったとしても

 

本当の意味では、自分はいない。

 

 

 

わかりやすく書こうとするのも

 

論理的に書こうとするのも

 

見やすい構成で書こうとするのも

 

全部、相手に少しでも伝えたいから、であって

 

相手の事を思うが故、なんだよね。

 

そんな根本的なことを忘れたおれが

 

どんなに書いたところで

 

「で、あなたは何が言いたいの」

 

と言われるのは当然だった。

 

 

 

相手が見えた瞬間からその文章は劇的に良くなる。

 

今日書き直した文章を提出したおれに教授は

 

「ほんとは力あるんだから」

 

と言ってくれた。

 

少しいい気分で今日は帰れそうだ。