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絶望が教えてくれること。憧れだけで走り続けるのが正解なのか。

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人は憧れを抱く。

 

素敵な人を見て自分もそうなりたいと願う。

 

そうした憧れは人を高みへ押し上げてくれることもある。

 

一方で、その過程で挫折をもたらし、絶望を味合わせることもある。

 

 

 

一般的に

 

憧れは尊いもので、絶望は忌むべきもの、のように扱われる。

 

憧れの存在は誰ですか?

 

という質問は好意的だし、

 

絶望的な状況、といえば

 

良くないもの扱いだ。

 

でも、本当に単純にそれでいいのだろうか。

 

絶望を避け続け、憧れだけで走り続ける、

 

それが本当に正解なのだろうか。

 

その態度は本当に人生を、ひいては日々のこの日常を

 

より良いものにしてくれるのだろうか。

 

 

 

例えば

 

人はそれぞれ生まれながらに容姿が決まっている。

 

容姿がかっこいい人・美しい人、

 

人はそういう存在に憧れる。

 

あんな風になれたらな、

 

自分もそうあれたらな、

 

そんな風に憧れる。

 

でも、姿形は変えられない。

 

だからそこで、ああ自分はこの容姿で生きていくのだ、と

 

ある種の「絶望」を受け入れる。

 

 

 

もしここで絶望を拒否し、

 

憧れで走り続けたらどうなるだろう。

 

おそらくその生き方はとんでもなく辛い。

 

いつまで経っても自分を受け入れることができず、

 

自分を否定し続けることになる。

 

憧れで走り続けることは、時に自分を不幸にもする。

 

 

 

結局、人間にはどうしようと変えられない部分がある。

 

容姿と同じように、運動能力、そもそも備わっている頭脳、など

 

そこにはどうしようもできない領域が間違いなく存在している。

 

だから絶望というものは、その「どうしようと変えられない部分」を

 

おれたちに教えてくれる役割を持っている

 

おれはそんな風に感じている。

 

 

 

絶望から立ち上がる物語は賛美されるが

 

いつまでも絶望を直視せず、

 

避け続けることは悲劇をもたらすことも多い。

 

夢を煽る人はこの社会に決して少なくないが、

 

彼らは絶望を受け入れることを拒むような傾向がある。

 

諦めないで、なんて言って。

 

 

 

でも闇雲に絶望を拒否するのではなく

 

絶望を受け入れることができる器を持つことこそ、

 

本当に自分の能力を活かすために必要なことなのではないかとおれは思う。

 

 

 

憧れの尊さを語るのが悪いとは思わない。

 

でも一方で絶望が教えてくれることを

 

同時に念頭に置いておくこと、

 

そんなバランス感覚を持つことが

 

大事なんじゃないだろうか。