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例えば失恋の話。失ったのが辛いのではなく、欠けた自分が辛いんだ。

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日曜日の夕方、フェイスブックをたらたらと眺めていた。

 

どうでもいいような投稿をさらさらとスクロールしながら適当に見ていると、

 

昔の恋人が近況を投稿しているのが目に入った。

 

あまりフェイスブックに積極的に投稿するような人ではないものだから

 

余計に目を引いたのかもしれない。

 

楽しそうな旅行の写真が並んだその投稿は

 

おれに懐かしさを覚えさせると同時に、少し心をちくりとさせた。

 

別に彼女に未練があるわけではない。

 

これ以上一緒にいない方がお互いのためだと納得して別れたのだ。

 

実際、おれは当時の自分よりも今の自分の方が好きになれた。

 

別れは良い方向に変化するきっかけをくれたものであって、

 

今となってはそのきっかけをくれた彼女には本当に感謝している。

 

 

 

その投稿を見たときに感じた心の痛みはたぶん、

 

自分が欠けてしまったのではないか、という恐れだったのだろうと思う。

 

恋人がいるときの自分を思い出して、

 

いない現在の自分を振り返ったときに、

 

おれは何かしら大事なものを欠いているのではないか、

 

自分の価値が欠けてしまったのではないか、

 

という疑いを持った。

 

だから心が痛んだんだと思う。

 

つまり

 

特別な存在を失ったことを思い出して辛くなったのではなく、

 

特別な存在がいない現在の自分の価値を疑って辛くなった。

 

そういうことなんだと思う。

 

 

 

なんともダサい話だ。

 

自分で書いていて思わず記事を消したくなる。

 

だって要は、自分の欠損を埋めるために恋人が欲しいんです、って言ってるだけなわけだ。

 

笑うわ。

 

そりゃそれじゃあ恋人なんて出来ないわ。

 

まあでもそうなんだけど、

 

そんなおれだからこそ、分かることもあったりしてさ。

 

何がわかるかって、

 

同じようなことは恋愛以外でも日常の中でしばしば起こっているよね、ということだ。

 

 

 

例えば就活とか受験。

 

志望していた所に合格できなくて、落ちたりした時、

 

辛いなあ、と感じるわけだけど、

 

何が辛いのかってたぶん、

 

合格を逃したことそのものじゃなくて、

 

合格を逃したことで自分の価値が欠けたような気がすることが辛い

 

んだと思うんだ。

 

 

 

でも本当は、失ったから自分の価値が欠ける、なんてことはないわけで。

 

自分の価値ってそんな外側から付け加えられるようなものじゃないはずで。

 

結局、外部から付け加えたものに自分の精神を依存させると

 

失うことばかりを恐れ続けてしまうんだと思う。

 

失わないように、欠けないように、ってそればかりに必死になって、

 

周りが見えなくなる。

 

そうなるといつの間にか自分しか見えなくなっちゃうんだろうな。

 

 

 

そんなことを振り返ったあと、

 

おれは彼女の投稿に、そっと「いいね」を押した。