おれは端から見たらよく分かんないことを結構やっているらしい。
なんでそんなことに時間使ってんの?っていうことをやってしまう。
冷静に考えればやる必要のないことをやってしまい、
なんでそんなことしてんの?って他人から言われる。
そして自分でも、何に時間使ってんだよおれは、って後悔する。
普通に考えれば無駄なことと、普通に考えればメリットがあること。
その区別はもちろんついている。
自分の中でも分かっている。
でも、できない。
それがどんなにメリットがあることだって事細かに説明されても、
やりたい!面白い!やらないではいられない!
って自分の感覚が反応しないと、動けない。
確かに話を聞けば大事だなあとは思うんだけど、
誰かから提供された理由、だけではどうしてもこの身体は動いちゃくれない。
つまり、おれは「頭で理解したメリット」ではどうにも行動できないらしい。
誰かが、こうしなさい、って与えてくれたメリットではワクワクできないんだ。
テンションがあがんねーんだ。
同じように「頭で理解したメリット」の限界を感じている人って多いんじゃないだろうか。
思うに、もし社会全体がガンガン上昇しているような世界なら、
「頭で理解したメリット」を忠実にこなすことで人生が上昇していく感を感じることができて、
誰かに提供されたメリットでも、結構満足感を抱くことができるかもしれない。
でも、現在のように社会全体が停滞している中ではもう、
誰かが決めたような「作られたメリット」で人生が上昇する保証なんかないわけで。
そうなれば「作られたメリット」にモチベーションを感じられないのは当たり前なんだと思う。
ということは、そうした中で自分なりのパッションを持って生きていくためには、
誰かから与えられたメリットを享受するのではなく、
自分なりのメリットを作り上げていかなければならないんだろう
と思う。
自分の中で行動をすることの目的や利益を「再設定」し直さないといけないんだと思う。
普段ふわっとしか考えずに生きていると、
自然と誰かから与えられたメリットを無条件に受け入れてしまっている。
でもそのメリットは自分にとっての「本当の」メリットかは分からない。
「本当の」メリットは、自分の人生を良くしてくれることであるはずだ。
自分の人生が良くなる、というのはどういうことなのかは、人によって様々で、
メリットを誰かから与えられてそれが自分にとっての「良い人生」に結びつくかは、
どんな人生を望むのか、という望む方向性によって違うはずだ。
だから「再設定」するべきなんじゃないか。
自分にとって切実な自分の願望に即して、
オリジナルなメリットを設定することで、
取り組みを誰かから与えられた「他人ごと」で終わらせるのではなく、
自分のためになる「自分ごと」にすることができる。
自分ごとになってない活動は、どんなに理由やメリットがあっても楽しくない。頭で理解したメリットをいくら重ねても、辛くなるだけ。
— こまめまめお (@majimescreem) February 10, 2016
誰かに設定された視点でその場を見る限り、何かが自分ごとになることはない。
— こまめまめお (@majimescreem) February 10, 2016
自分なりの視点を設定して、自分のための問いを解決しようとするから、何かが自分ごとになる。
そんなことを考えた夕方。