生み出すのは消費するのより何千倍もエネルギーがいる。
それなのに人はどうして何かを生み出すんだろう。
どうして生み出さずにはいられないんだろう。
生み出すのには時に千切られるような苦痛を伴うことだってあるのに、
そんな思いをしながらも
それでもどうして何かを生み出そうと苦心するのだろう。
そんな中で何を求めてもがいているんだろう。
もがくのは楽しいとは言えないときのほうが多いし、
苦しんだ結果として何も生み出すこともできないことだって往々にあるのに。
それでももがく。
必死こいて無様でももがく。
特に消費し続けても尚余りあるほどに、満ち足りているはずなのに、
それでも消費することを選ばず、何かを生み出そうと力を尽くす。
生み出したものは誰の目に触れるともわからないし、
触れたところで心に響くかどうかすらも分からない。
それでも何かを信じて生み出すのは、ある意味狂気なのかもしれない。
人は狂気を抱えながらでも、それでも叫ぶ。
そうだ、それはどこか叫びに似ている。
日常ではどうしようもない心に巣くって絡まりあったその思いを
叫ばずにはいられなくなったほど肥大したその感情を
何かに乗せて世界に吐き出す。
その叫びは自分の一部を切り取ったようなものだから、
その一部を誰かに認めて欲しくて、
あなたの一部は素敵だねと言って欲しくて、
吐き出したそれを世界に向けて発信する。
性懲りも無く吐き出し続ける。
いつか吐き出すのも辛くなったとき、その流れは止まるんだろうけど。
生み出すのは、自分の肥大したどうしようもない一部を自分の中に留めることが出来ないから。
そしてその一部を誰かに受け止めて欲しいから。
それが苦しいのは、誰かに受け止めてもらえないかもしれないから。
ほとんどの場面で、願った通りの何かが絞り出せないから。
おれは何を叫んでる?
おれの叫びはどこかの誰かに届くだろうか。