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フェイスブックで他人の投稿に嫉妬するなら、考えておきたい思考のクセ

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例えばフェイスブック
他人のキラキラした投稿を見た時に
自分の人生の薄っぺらさを痛感する事がある。
彼ら彼女らはあんなに素敵な日々を送っているのに
自分はどうしてこんなに何もない日々を、
輝きのない日々を、送っているのだろう。
そもそも自分の人生は本当に何もない、
クズみたいな人生だ。
ひたすら同じような毎日を繰り返すだけの
むなしい人間だ。
そんなことを思ってしまう時がある。

 

いつだったか
フェイスブックは人生のいい時ばかりを切り出して
並べたコレクションみたいなものだ」
と誰かが言っていたのを覚えている。
それを聞いたときは結構衝撃を受け
確かにそうだ、とすごく納得した。
その考えを知ってからは
比較的落ち着いて他人の投稿を
見ることができるようになった。

 

でもそもそもとしておれたちが
他人の人生を知ることで苦しくなるのは
どうしてなのだろう。
例え他人の人生は他人の人生だと割り切れなくても
他人の人生を羨んだり妬んだりしたとしても
割り切れないよな、妬んじゃうよな、
で終わっておけば別に苦しくはないんじゃないか。
ならばそこから苦しみが生まれるのは
一体どうしてなのだろう。

 

それは恐らく「比較」してしまっているからだ。
自分の人生と他人の人生を比較して
どっちの方が素晴らしい
どっちの方が充実している
という優劣の世界で考えてしまっているからだ。
そこに優劣をつけていなければ
例えうらやましいなと思ったとしても
そこから苦しみが生まれる事はないはずだ。

 

さらに言うならばその優劣の世界が苦しいのは
その世界ではおれたちは
自分を責めてしまうからだ。
自分が悪い、と責めて自分の価値を否定する。
だから苦しい。
自分はダメだ
自分はクズだ
自分は何もない
自分は価値がない
そうやって自分を責め始めると、
生きる気力もなくす。
ああもう駄目だなと思って全て放り出したくなる。
ぽいってしたくなる。

 

フェイスブックの例に戻るならば
他人のキラキラした投稿を見たときに
それを自分の人生と比較し出して、
その比較から優劣を感じて
そして自分を責め始めるから、
だから苦しくなる。

 

結局そこは比較しなくていいところで
比較して苦しんでるんだろうなあ、と思う。
でも彼ら彼女らの人生を
全て知っているわけではないし、
彼ら彼女らの人生の輝いている部分が
たまたま他人に認められやすい部分だった
のかもしれない。
そう思えば比較する意味なんて全くないし
自分を責める意味も全然ない。

 

SNSって自分の隠れているものが
浮かび上がってくるようで
なんか結局全部お見通しなのかなあ
とか意味わかんない事を思ったりする。