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苦しみの先に成長がある、ってバカじゃねーの、と若造のおれが考える理由

苦しみの先に成長がある

 

なんてどこかの偉い人が言ってた気がするけど、

 

ほんとにそーなんか?

 

といつも思うので、ちょっと若造の戯言を聞いて欲しい。

 

 

 

おれは結構素直なので(笑)、

 

偉い人とか大人たちが言ってたようなことを割とちゃんと信じる子供だった。

 

だから、

 

なんかに手間取ってたりしたときに、

 

苦しんだ先には成長があるんだよ、

 

なんて真顔で言われたら、

 

そうなんだ!

 

って素直に疑いもなく信じていた。

 

それゆえ苦しいことがあっても

 

これはおれの成長のためなんだぞ、うんうん

 

って考えて、大人たちの言葉を信じて自分を奮い立たせてやってきた。

 

確かにそのおかげで苦しいことがあっても、なんとかやってこれた経験もいくつもあった。

 

 

 

しかしふとこれまでを振り返ってみたときに、なんかちょっと変じゃね、ということに気づいた。

 

というのも、

 

苦しんだ先には成長があるんだよ

 

って言葉はおれ自身の成長のことを考えて言ってくれている言葉なはずだけど、

 

成長という観点からこれまでの経験を振り返ったら、

 

苦しいときよりも楽しいときの方が、圧倒的に成長しているじゃん!!

 

ということを思うからだ。

 

ていうか、むしろ苦しいときって全然進んでなかった、停滞しまくりだったじゃねーか。

 

例えば分かりやすく受験のことを考えてみても

 

受験やべー、くるしー、うげー

 

って思ってたときは全然だめ。

 

からっきし。

 

教科書開くので精一杯。

 

そんなだったのに対して

 

苦しいと思っていた勉強の中に、こんな楽しさがある!

 

と気づいたときには、ぶわーって視界が開けてぐぐっと成長していた。

 

当時はなんにも思っちゃいなかったけど、これってよく考えれば

 

苦しみの先に成長がある

 

っていう考えと全く逆の事実を経験してるじゃねーか。

 

だから

 

あれ、おかしくね?

 

といまさら思うわけなのだ。

 

 

 

やっぱり普通に考えて、苦しんでいる時点で成長速度はがくんと落ちるわけで、

 

楽しんでやったほうが、そりゃ成長も早いよね。

 

行動量が違うもんね。

 

気持ちが軽けりゃフットワークも軽くなるよね。

 

どんどんやろうと思えるよね。

 

だから最近は、苦しみの先に成長があるんだよ、とか言われると

 

ほんとかよ?うそじゃねーの?バカじゃねーの?

 

って思っちゃうのだ(過激)

 

 

 

 

 

で、ここから先はあくまでおれの想像なんだけど、

 

苦しみの先に成長がある

 

っていう言葉がよく使われるのは、

 

上に立つ人が、下に付くものをなんとかして行動させるための言い訳として、都合がいいから

 

なんじゃないかと思う。

 

日本の文化的に、修行的な考え方があるから、苦しんだ先には成長がある、っていう言葉はなんだか妙に説得力がある。

 

だから上に立つ人がそういうことを言うと、おおなるほど、とか思ってしまいがち。

 

しかも多くの人はほんとに真面目だから、

 

おれは今苦しいけどこれは成長のためのステップなんだな

 

とか考えちゃってなんだか苦しくてもやれてしまう。

 

おまけに、それを終えたときには達成感とかそういうので、確かに成長したな、とか感じてしまう。

 

だから余計に深く信じてしまって、それをまた下の世代に伝える、みたいなことが起こる。

 

そんな感じになってるんじゃないだろうか。

 

それってすげーこえー。

 

がくぶる。

 

 

 

だから、

 

苦しんでいるのを、成長のためだ、と言ってしまうのはなんかずるい気がするんだ。

 

苦しみの免罪符的に成長の話を持ち出すのは、なんか卑怯な気がするんだ。

 

これって甘い考えだろうか。

 

個人的には至極まっとうな考えだと思うんだけど、どうだろう。

 

ぜひ世間の大人の方々に教えていただきたい。