今朝は寝坊してやりたいことができなかった。
寝坊した時なんてのは起きた瞬間、時計を見るまでもなく寝坊したことがわかる。
あーあ、最悪だ、と思いながら1日が始まる。
今朝もそんな始まりだった。
寝坊に限らず、何かうまくやれなかったことがあると、おれはすぐに「自分はダメなやつ思考」をしてしまう。
おれはなんて意思が弱いんだ。
他の人はおれなんかよりずっとすごいのに。
おれってなんなんだよ。
ほんとおれってダメだな。
そんなことをぐるぐる考える。
飽きもせず何度もなんども。
そんな救いのない朝にも、世界は回り続ける。
おれを置いてくるくると回り続ける。
待ってなんかくれない。
たかが寝坊じゃないかと人は笑うんだろうな。
おれにとっては寝坊すらも苦しいのに。
なんて思う。
そして、些細なことで苦しんでいる自分が余計に自分を弱くてちっぽけな存在にみせる。
結局、何が起きたとかは関係ないんだ。
客観的に見て、それは大変だね、と同情してもらえるほどの出来事がどうかなんて関係ないんだ。
どんなに些細なことだろうと、
自分が苦しいなら苦しい。
「偉大な」苦しみを求められたって、苦しいものは苦しい。
それを他人にどうこう言われるのは、なんだか違う。
でも一方で苦しさをわかってほしかったりもする。
大変だね、って言って欲しかったりする。
出来事が一般的に見て些細かどうかは関係ない。
どんな些細なことであれ、そこに自分を否定する要素が見えるかどうかが、苦しみのスイッチなんだ。
その出来事が自分を否定するなら、それは自分にとって苦しい出来事。
でも果たして出来事が自分を否定しているのか…?
そうじゃないんじゃないか。
その出来事が悪意をもっておれに襲いかかってくるわけではない。
とすればそこに悪意を忍ばせているのは自分自身。
その出来事に自分を貶めさせているのは自分自身。
結局苦しんでいる時って、起きてしまった出来事と自分の価値をわけも分からず結びつけている。
結びつけたことで、頭の中がぐちゃぐちゃになっている時なんだと思う。
どんな出来事だろうと、自分を傷つけるのは自分自身。
出来事で傷つく理由は、出来事と自分の価値を勝手に結びつけているから。
断ち切ろう。
出来事と自分の価値を切り離す。
それを意識したら少しは世界が綺麗に見える。
少しは悪くないなって思える。
ちょっとまとまりきってないけど、言いたくなった、
そんな気がしたよ、というお話。