はっきり言えば、なに不自由なく生きてきた。
今まで敷かれたレール通り、それなりにまっとうに生きてきた。
たぶんこのまま普通に生きていけば、
ある程度の企業に就職して、30歳くらいで結婚して、二人くらい子供ができて、それなりの役職になって、60歳で退職して、第二の人生をそれとなく謳歌して、そして死んでいくんだろう。
それも悪くないかな、と思う。
当たり前の幸せさが分からぬほど愚かでもない。
当たり前の偉大さが分からぬほど愚かでもない。
世の当たり前がどんな苦労の中で成り立っているか、それが分からぬほど若くはない。
だから本当に恵まれているな、と感じる。
自由を謳歌、というほど楽ではなかったし、制約や忍耐も多かったが、敷かれたレールに乗っかることができるほどには恵まれた環境だった。
本当に感謝している。
ここまで生きてこれただけでもよかったな、と思う。
…なんだか遺書みたいだ。
いや、そんな暗いニュアンスではなく本当にありがたいと思っていて。
大学も大学院も行きたいところへ行かせて貰えた。
24歳にもなって、年間300万円ではきかないほどお金をかけてもらっている。
それが恵まれていると言わずになんというのだろう。
感謝しかない。本当に。
でも、それでもだ、
申し訳ないことに、おれは心のどこかで、今の人生が嫌で仕方ない、と思っている節がある。
恵まれた環境を享受するためには、本当にいろんな制約がある。
耐えないといけないことや、理不尽に感じることがたくさんある。
それが環境を享受することの代償なのかもしれない。
そうかもしれないのだが、おれはその代償が嫌で仕方ない。
リアルに吐き気がするほどには嫌悪感を抱く。
誤解を恐れずに言えば、くそ食らえ、と思っている。
恵まれた環境なんてくそ食らえ、と思っている。
一般的には貧しい環境や苦しい状況から這い上がるようなストーリーを賛美する傾向があるようだ。
そういう話の美しさはよくわかる。
正直おれも嫌いじゃない。
でも、そういう話が賞賛される一方で
恵まれた環境でいろんな期待を背負ってがんじがらめになりながら必死に生きている人のストーリーは軽んじられるような気がする。
わかるよ、そういう話が軽く見られるのも、聞いたところでなんとなくむかつく気持ちも。
イケメンをなんとなく恨む気持ちと同じだと思う。
もともと恵まれたものを持っていて、うらやましいものをたくさん得ている。
それはやっぱり持たざる者からすればむかつくよ。
だから分かる。
分かるんだけど、でも、そうじゃなくて、という気持ちもある。
つまり、恵まれたものを持っている人がどうして苦労してないと言えるのか、ということだ。
恵まれた人はその環境の中でその環境特有のしがらみにがんじがらめにされながら必死にもがいている。
そしてそうやって頑張っている人ほど、他人の気持ちも分かるから、涼しい顔してなんでもないような顔をしている。
そういうもんなんだと思う。
(ブログでぐちゃぐちゃ書いているおれはたぶんそんな人の足元にも及ばない。だって涼しい顔なんてできないから!叫びたいから!こっちだって頑張ってんだ!って言いたいから!)
恵まれた人が苦労せずに良いものを手にしているなんて浅はかな妄想はやめにしたほうがいい。
そして、自分は恵まれた環境にいるなあと思う人。
こんなに恵まれているのにおれはなんてダメなやつなんだ、と思うのもやめたほうがいい。
人はそれぞれの事情、それぞれの環境、それぞれの手札の中で戦っている。
それをいちいち比べることに意味はない。
偉そうに言えた口では無いけれども、やっぱりそう思う。
恵まれた環境を持っている自分に罪悪感を抱くのも、そんな環境を活かしきれない自分に罪悪感を抱くのも、やめにしよう。
おれも頑張ってやめにするから。
環境を比べることに、人生の手札を比べて一喜一憂することに、意味はない。
おれはおれだ。
そんな罪悪感に邪魔されてたまるか。