妙に、「カメ」という生き物が、気になる。
保育園児時代、図鑑でウミガメのページを開いたあの瞬間以来、私はカメに執着しているのだ。
創作的な活動では、すべからくカメをモチーフにしてきたし、ことあるごとにカメを表現してきた。
へたくそな絵にも粘土細工にも、カメさえいれば、満足だった。
甲羅の下には
どうにも可笑しくて仕方がない。
なぜあんなに厳重に守りを固め、ちょっとした刺激で、すぐに引っ込んでしまうのか。
首に始まり、四肢やしっぽに至るまで、刺激が加わるや否や、ひゅっと、すくめるあの様子は、臆病以外の何物でもない。
もしも、遠いカメのご先祖さんに「勇気」という概念があったのなら、彼らはきっと甲羅を脱ぎ捨て、背負うものもなく、遠くまで駆けていったに違いない。
いったいなぜ背負ってしまったのか、なんの業があって、あんな重荷を背負っているのか。
気がかりなのは、甲羅の中である。
あの甲羅の内側の世界は一体どうなっているのだろうか。
甲羅の下にはカメの本体が身を潜めていたりするのだろうか。
それはないとしても、あの下に肉体はぎゅっと詰まっているのか、それとも空間があるのだろうか。
背腹は甲羅と一体化しているのか、別物なのか。
狭苦しいのか、存外そこは悠々自適な快適空間なのか。
考えるほど、不思議である。
生物学的に詳しいことは、わからない。
もちろんとっくの昔に誰かが解剖して調べて、まとめられているはずだし、そうした知識の蓄積はネット上にいくらでも散らばっている。
でも私は、なんとなく調べたくない。
私はただ、彼らを眺めて不思議がっていたいのだ。
科学や理論に邪魔されず自由に空想している、その感じが好きなのだ。
オトナになれないウミガメたち
一度、ウミガメの放流イベントに参加したことがある。
滋賀の自宅を夜中に出発、車を4時間ほど走らせ、静岡県のどこかの浜辺に向かった。
浜の名前はとっくの昔に忘れてしまった。
当時、夜中に外出するなんて、すこぶる特別だったから、妙に興奮したのを覚えている。
ラジオから流れるDJの声とその裏で流れるBGMを聞きながら、夜中の街を一晩中眺めていた。
早朝の浜辺に到着し、卵から孵ったばかりのウミガメの赤子を手渡されたときは、その何とも言えない柔らかさとほんのりした暖かさに、心底感動した。
いまだにその感触を覚えているような気がする。
25歳の今、同じようにウミガメを手渡されても、あの頃のように、素直に感動できるだろうか。
放流後、解説担当のスタッフが「今日放流した中で、大人のウミガメになれるのは1匹か2匹です。」といったようなことを説明していたのが、どうにも耳から離れない。
ガラパゴスゾウガメの自信
「ガラパゴスゾウガメ」というやつを知ったのはいつだっただろうか。
NHKでやっていた、「生き物地球大自然」的な大自然もっさりなタイトルの番組に登場したのを見て、やつの存在を知ったのだったと記憶している。
やつは確かにカメには違いなかった。
カメを名乗るための要素は確かにそろっている。
背中を覆う甲羅に、そこからはみ出す四肢と首。
顔の形も確かにカメだ。
しかしやつらは、巨大で、ごつごつしていて、クリーチャー的な風格を持っていた。
ウミガメの優雅さとは正反対の、ゾウガメの姿に、私はかける言葉がなくて、考えることをやめた。
進化から取り残された島、ガラパゴス諸島。
そこで大陸の進化からは取り残され、独自の進化を遂げたガラパゴスゾウガメは、天敵のいない環境を活かして、巨大化を図った。
それに伴って、動きは緩慢になり、ゾウガメと言われるような姿になった。
たしかそんな流れだったと思う。
ガラパゴス諸島という環境で生きていくことに特化したやつらの生存戦略は、なんとなく当時の私にはうらやましかった。
自分のやり方で堂々と生きている感じがして。
愛とは偏っているからこそ、愛なので。
私はカメを偏愛している。
私のカメへの愛は偏っているのだと思う。
ここでいう「偏り」というのは他の生き物やモノに対する愛と比較して、カメに対して注ぐ愛の総量が相対的に多い、ということだ。
「愛を注ぐ」というのは、対象のことを想ったり、実際に触れたりすることで、人生における対象の価値が高まるような行為、という意味で使っている。
今書いているこの文章も、カメに対して自分の思いを綴るものであり、その過程でカメへの愛を再確認しているので、結果として愛を注ぐ行為になっている。
つまり、愛は高まれば高まるほど、より高まりやすくなるわけだ。
そう、愛は基本的に指数関数的に増えていくものなのである。
しかしこう考えると、愛というのは、そもそも偏ったものなのだろう。
偏っているからこそ、それは愛なのだ、と言えるだろう。
その前提の上で、それでも偏っていると感じたときに、人はその状態を「偏愛している」と呼ぶのだろう。
つまり偏愛できるものがあるということは、非常に幸せなことなのだ。
偏っていくことで、人は幸せを見つけられるのかもしれない。