賛否両論あるだろうが「もったいないから」という理由で何かを続けるのは多分に間違いを含んでいると思う。
一年半ほど前、私が大学院を中退しようとしたときに多くの人が異口同音に唱えたのは「そんなのもったいないよ」というフレーズだった。
まるで皆で打ち合わせてきたかのように、もったいないよ、と言うのだ。
それに加えて「甘い」とか「ホントに大丈夫なのか」とか「逃げでしょ」とか、そんなような言葉もご親切に添えていただいた。
その選択が世間一般でいえば甘いことも分かっているし、正直に言えば逃げの気持ちがあることは事実だったし、本当に大丈夫かなんて一番不安に思っているのは当の本人だったしで、そんなことを今さら言われてもと逆に困った記憶がある。
まあそういう反応になるよなあと客観的に感じ入るしかなかった。
多少は「そういう選択もありだよな、がんばれよ!」と言ってくれる人がいるのを淡く期待していた節もあったが、そういう人はほぼいない。
そんな反応にならなかったのはそう言ってもらえるほど信頼されてはいなかった私の不徳の致すところだったのだろうが。
そんな打てども響かぬ私の様子をみて、自分たちの主張の趣旨を私が全く理解していないと思ったらしい。
私の選択がどうしてもったいないのか、いかにもったいないことなのか詳しく聞かせてくれるのだった。
よくよく話を聞くと彼ら彼女らがもったいないとしているのは学業を続けていれば得られたであろう「学歴」、そしてこれまでに払った「学費」、それまでに投資していた「時間や労力」などのようだった。
なるほど、それは確かに失うには少々惜しい。
彼ら彼女らが「それはもったいない」という結論に至るのは、至極当然のことだっただろう。
しかしその後に及んで頭ゆるゆる系男子の私は、どうして学歴がこれからの人生で役に立つとそれほどまでに信じられるのかが分からなかった。
そして、これまでに投資してきたお金や労力はもう戻ってこないのだから、意味を感じられないことに改めてお金や時間を費やすという気には到底なれなかった。
機会損失という言葉がある。
行動経済学なんかで使われる用語だったと記憶している。
ある選択Aをしたとき例えば100の利益が出るとしよう。
しかしそれ以外の選択肢Bを選んでいれば実は120の利益が出たとする。
するとその人は選択肢Aを選ばなかったことで目に見えない損失を被っていることになる。
機会損失とは簡単に言えば、こういう状況でより良い選択肢を選べずに(そんな選択肢があるとも知らずに)実質的に損失を被るような状況のことだ。
話を戻すと私は当時大学院を辞める選択肢を選ぶほうが最終的に得られるものが大きいと信じていた。
しかし「もったいない」と言ってくれた方々は、普通に卒業して就職するほうが当然得られるものが大きいと確信していた。
そうなると話は合わない。
当時の私には120の価値のある「選択肢B」が見えていたのだ。
もちろんそれは幻想の可能性もある。
進んでみれば実は価値は60だったなんてことももちろんあり得ると思う。
しかし120の価値の(あると感じられる)選択肢が見えているのに、100の価値の選択肢を選ぶなんて、私にはあり得なかった。
もったいないと忠告をしてくれた人にとっては私の言う「選択肢B」の価値は50とか60にしか見えなかったのだろう。
どちらが正解というわけでなく、お互いに見ているものが違ったわけだ。
その後私は結局選択肢Bに近い道を選んだ。
そして今となって思うのは、選択肢Bに120の価値があったかは分からないけれども、「もったいない」という理由で選択肢Bを選ばなくてよかったと思う。
他人の理論ではなく、自分の理論で道を決めた、という経験になったからだ。
こういう経験をできたことも十分価値としてカウントしても良いと思う。
そういう意味では120以上の価値があったのかもしれない。
やー、価値は多様すぎて単純には測れないね。
もったいないからやめておきなさいと言われたとき、自分の価値はどこにあるだろうか。
相手はどんな価値を失うことを恐れているのだろうか。
自分の信じる価値が、失うかもしれない価値を上回っているのならば、もうやるしかないのではないだろうか。
「もったいないから」で失うかもしれないものもある。