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他人の評価を求めてしまうのは、心の欠乏を埋めるのに必死だから。

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(滞在中の家から車で30分もかからない場所に仁淀川の川原がある。)

 

他人の評価を求めるな、とか言われるけど、

やっぱり俺も、他人の評価を求めると基本的にうまくいかない、と思います。

 

ひきこもりとか夜逃げもどきとかいろいろ経験してきましたが、そういうなかで見えてくるのは、

自分自身の精神的な欠乏感が強いと、ぼくらは他人の評価の上でしか行動できなくなってしまうんだな、

ってことです。

要は、多くの人が「いいね」と分かりやすく評価するものを求めてしまうんです。

 

例えば、

自分は無力な存在だ―、なんて無価値なんだー

同年代のあの人はあんなに活躍しているのに、自分はなんてつまらないんだー

今日も一日部屋に閉じこもっちゃったー、終わってるー

とか思っちゃったりしますよね。

で、最終的には、

おれって生きてる意味ってあるのかなー

とか考えちゃうわけですよね。

 

そういう気持ちを抱いた時に、それらのマイナスな気持ちを払しょくするために、じゃあどうすればいいのかな、と誰しも考えるわけです。

このつらい気分をてっとり早く解消してくれるのは、なにかな?と探すんです。

そして、最も手っ取り早く不安とか無力感とかを緩和してくれるのが「他人から分かりやすく評価されるもの」なんだと思うんです。

 

例えば「難関大学に合格する」とか「有名な大企業に就職する」とか「年収1000万円」とか、そういうもの。

そういう世間一般から「いいね」ボタンを押してもらえるような、「いいね」の最大化を目指したような回答を求めるんですね。

もちろんこれらはとても素晴らしいです。

実現するには多くの努力が必要だし、能力も必要です。

それに実現すれば多くの人が祝ってくれるし、社会的に良いこともたくさんあります。

 

でもそれと、自分の精神的な満足度は別の話だと思うんです。

私の考える「うまくいっている状態」というのは、

「自分の精神的な状態が良好で、それが持続可能であること」

みたいなイメージで。

 

例えば最近でいえば「電通の新入社員の方が過労を苦に自殺された」ニュースがあったじゃないですか。

あれとかすごく悲しいですよね。

たぶん「電通社員である自分」を失うと、精神的な欠乏感を埋められなくなってしまう、と感じるような状態にいたんじゃないかなと思うんですよ。

その結果、その欠乏を埋めることができない自分でいるくらいなら、死ぬしかなかった。

他人の評価だけに囚われてしまうと、やっぱり幸せを感じながら生きられなくなってしまうんだと思うんですね。

 

精神的な満足度を高めた生き方・働き方を追求する流れは、これからの社会でどんどん加速すると思います。

わたし個人でいえば、

他人の評価を気にするとすれば東京で企業に就職したほうが良かったのかもしれませんが、

自分の暮らしをちゃんと作っていくことを考えて高知県の田舎で仕事をしていく道を選びました。

まだまだ高知での暮らしは始まったばかりですが、自分で色んな事を創っていける分、すごく楽しいし、

高知県の風土は自分にとてもあっているな、と思います。

 

こころの欠乏を埋めるのに必死になって、他人の評価ばかり求めていないか、自分の精神的な満足度は高いのか、何度も問い直していきたいですね。