音楽活動をしている。
そういうと「すごいね」「がんばれ」ってたくさんの人が言ってくれる。
それは嬉しくもあり、照れくさくもあり、そして、不安でもある。
不安。
この不安はたぶん「音楽をやっている人」と見られることへの不安なのだと思う。
「楽器がうまい人」という見方をされることに、未だに僕はびびっているんだと思う。
音楽をやっていると、楽器が上手い人に、それはもう、腐るほど出会う。
自分より技術がある人は、星の数ほどいる。そんな当然の事実を己の肌で知る。
だから、せっかく応援してくれた人にいつか「がっかり」されるのではないかと、怯えてしまう。
自分が好きで音楽しているのに、「音楽をやっている人」と見られるのが不安だなんて、ちゃんちゃらおかしい、と思ったかもしれない。
でも、自分が好きな分野で勝負しているからこそ、自分の拙さが見えてしまうわけで。
未熟さが否が応でもみえてしまうのだ。
自分の音楽が未熟であること、そんなのは誰よりも自分自身が一番よく分かっている。
無様なステージだったり、ダサい演奏なんてのは、掃いて捨てるほど、経験してきた。
足りないことだらけだと、心の中でいつだって叫んで、わめいて、痛感している。
爆発しそうなステージ後を一体何度経験してきたか。
だから、声高々に宣言するのは、不安なのだ。
「はーい、音楽の人ですよー!ちゅうもーく!」って言うのは。
不安だし、恥ずかしいし、めんどくさい。
でも、それでも、僕たちは、宣言しないといけないのだと思う。
不安の中で、声高に言い切らないといけないんだ。
才能だとか、センスだとか、頭にチラつくそんな言葉を必死で飲み込んで、震える手を挙げないといけない。
それが、その震えが、「表現する」ということなのだから。
何かを始める時。何かを世に出す時。
僕たちは、どこかの誰かの「がっかり」だとか、「嘲笑」だとか、「批判」だとか、そういう諸々を超えていかないといけない。
そう考えた時、もはや、そこを越えるまでが音楽なのだ、と言ってもいいほどだ。
越えて初めて、その音の羅列は音楽になり、
その超え方をデザインすることもひっくるめて、僕らはそれを「表現」と呼ぶのだ。
結局のところ、僕は間違いなく、天才ではない。
音楽が好きだからこそ、ギターが好きだからこそ、それは分かる。
しかし、だからといって「天才でないから表現しない」というのは、態度として間違っていると思う。
そんなのは、欺瞞だ。
残念なまま、醜いまま、無様なまま、それでも「音楽やってます!」と宣言していく。
それをしない人に、何かを見つけることはきっと出来ない。
届きはしない。
だから、やめねえぞ。