のさかんぱにー!

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のさかんぱにー!

大好きな「音楽」と「自然」をキャリアにする!

コミュ障って明らかに片方だけの問題じゃないよね。コミュ障なのはあなたではなく「場」であるという考え方。

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コミュ障についての話題になるといつも気になることがある。

 

それは、コミュ障について語られる時って大抵の場合、

 

〇〇くんってコミュ力無いよねー

 

△△ってコミュ障だよなw

 

ってな感じで話が進められる、ということだ。

 

つまり、

 

コミュ力の無い誰かがいて、そいつの せいで会話が盛り上がらない、

 

というような言い方がされる。

 

でもそれってそうなのか?っていつも思う。

 

なんか違和感あるんだよなー。

 

 

 

コミュニケーションってその場にいる人間の相互作用の結果だと思うんだよね。

 

その作用というのは、

 

「言葉のキャッチボール」的な分かりやすいものもあれば、

 

「身振り」とか「雰囲気」のような非言語的なものまである。

 

そういうのをひっくるめて、

 

互いに作用し合って、その結果がいわゆるコミュニケーションなんだと思うんだよね。

 

 

 

で、これが正しいとしたら、

 

コミュ障と言えるようなコミュニケーション上の障害が何かしら発生した場合は、

 

「誰か」がコミュ障、なのではなく、

 

「その場」がコミュ障、なんだと思うんだ。

 

【人】ではなく【場】が障害にぶつかった、という認識をするべきなんだと思うんだ。

 

 

 

しかも、考えてみれば、

 

その場ではうまくコミュニケーションを取っていなかった、と判断されるような人だって、

 

他の場に行けばコミュ力を発揮する、ということは普通にある。

 

ある場ではコミュ障で、ある場ではコミュ力がある、という事例は日常の至る所で見られる。

 

いわゆる「ノリが合う」「ノリが合わない」というやつだ。

 

あそこはどうもノリが合わないんだよなー、という経験は誰しも一度はあるんじゃないだろうか。

 

その合わない範囲が人によって違うだけだ。

 

 

 

コミュ障なんてものは個人の性質に属するものではなくて、

 

場に依存するものなんだろう。

 

これが専門的に言って正しいのかは、はっきり言っておれは知らない。

 

無責任なことを言っているように聞こえるだろうが、

 

でも少なくともそう考える方が幸せなんじゃないか、と思うんだ。

 

例えば、

 

自分がうまく会話できなかったとしても、それはお互いがお互いの良いところを引き出せなかった場であっただけだし、

 

逆に、

 

誰か一人をコミュ障だ、と責めたくなった時にも、自分もあいつの良さを引き出せなかったな、相手を萎縮させるような場にしてしまったかもしれないな、と思った方が様々な人に対応できる自分になれそうだ。

 

 

 

結局、悪者さがしをしたところで誰も幸せにならない。

 

それに、悪者を見つけたところで、それ以上の何かは生まれない。

 

そこに生まれるのは、勝者の歪んだ満足感だけだ。

 

そんなことより何より大事なのは、自分の今日が少しでもマシになったかどうか、なんだ。

 

コミュ障なんだ!なんて、自分を責めるのも、他人を責めるのも、馬鹿げた話なわけで。

 

 

 

少しでもマシな明日を迎えるために、

 

コミュ障をむやみに個人に帰着させるのはもう辞めよう。