おれたち人間は本能的に「自分を使い果たしたい」と願っているんじゃないか、と感じることがある。
持って生まれたこの命を使いきって、それから死にたい、頼むから使い切らせてくれ、そう細胞が叫んでいるような感覚を覚えることがある。
日々をぼんやりと生きて、なんとなく恵まれているような生き方をしても、おれたちは幸せになれないなんてことは、もうわかってる。
だってそんな日々をうんざりするほど重ねてきた。
泣きたくなるほど繰り返してきた。
でもその反復は幸せなんかへと続いちゃいなかった。
むしろいつまでたっても血肉にならない消化不良のような日々へとしか続いちゃいなかった。
食べても食べても吐き出してしまうような、そんな時間が無情にも繰り返されるだけだった。
でも一方で、心が震えるような、自分の細胞ひとつひとつが反応するような、そんな感覚を抱いた瞬間も頭のどこかで覚えている。
心の底から笑った記憶、
顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いた記憶、
何度も何度も失敗した末にできたときの達成感、
本当に大好きな恋人との時間、
絶望にのまれそうになりながら続けた受験勉強、
そんなものも知っている。
難しい理屈も、心理学も、方法論も、哲学も、全部なくたって、あったって、知っていたって、いなくたって、
なんだっていいんだけど、とにかく、
自分を出し切っている人は、美しい。
そんなことを思うんだ。
そういう存在は、なんというか、生物として美しい。
結局、中途半端だからこそ苦しいわけで。
中途半端であるほうが楽にやれそうなもんだけど、
それはむしろ正反対であって、
中途半端であるからこそ、本来の命の使い方から離れていく。
中途半端はそもそも命あるものの在り方として不自然だから、
だからもやもやとした嫌な感じを覚えるんだ。
エネルギーは使わないで貯めておこうとすればするほど、
淀んで濁って腐っていく。
逆に出して出し切って行くほど、
なぜか増えていく。
使い切ってしまっているから苦しいんじゃなくて、
使いきれてないから苦しいのかもしれない。
風邪のなか朦朧としながら思った、そんなこと。