器用に生きることができるほど、できた人間ではない。
が、不器用というには余りに普通すぎる人間だ。
薬にも毒にもならぬ気性の割に、他人を恨んだり悪態をつくことも多い。
特別友人が多いわけでもなければ、少ないと非難されることもない。
モテるなどと自称すれば腹を抱えて爆笑されるが、人並みに色恋沙汰も経験してきた。
取り立てて頭の回転が悪いわけでもないし、かと言って頭がキレるはずもなく。
自分でも呆れるほどに平凡だ。
なのに自意識だけは一丁前で、おれは他のやつらとは違うんだと息巻いたり、根拠のない万能感を抱いたりもする。
そして、その勘違いがまたありがちなものすぎて、一体どこまで平凡なんだと思わず苦笑してしまう。
普通である、という事実は一見なんでもないことのようだが、ほんとは結構苦しかったりする。
近頃それを強く思う。
生き方も働き方も考え方もどんどんいろんなものが生まれてきて、多様化していて、
そこで生まれてくるキラキラした多様性は、ほらお前ら凡人とは違うだろ、という無言の主張をしているようで、
意識的にか無意識のうちにか、ますます普通のおれを追い詰める。
そんな圧迫をどことなく感じていて、
だから多様化が進むほどに普通であることの苦しみはますます増していくんじゃないか、なんて思えてしまう。
生き方、働き方、考え方、いろんなものが多様化していく、それは良いことばかりのように表現されるけど、
実は大多数にとって多様性は特に救いでもなんでもないのかもしれない。
大多数というかたまりから抜け出すほどに、実力をつけた人が抜け出した先にみれる世界が多様性なんだと思う。
多様性を否定するつもりはない。
むしろ多様性は必要だと思う。
実力をつけた人が先へ進めない社会はきっと、もっともっと苦しいから。
いつかその先の景色を見るために力を蓄えるのか。
それともまたいつものように1日を普通に過ごすのか。
問われるのは結局自分。